しえろう日記

刀ミュに狂った女のひとりごと

【X(旧Twitter)まとめ】葵咲本紀のエンディングで気になった話

【X投稿文章の再掲】

とりあえず投稿文をそのまま転記していますが、あとでまとめ直す予定です。

Xより見やすいと思いますので、こちらに再掲しています。

 

掲載元のX

 

 

検非違使出現の件とも重なる部分が多いかもしれないけど、葵咲本紀のエンディングで気になった話をします。 私、あおさくのエンディング大好きなんですよ。オープニングで花を胸に抱えながら登場する村正と、エンディングで葵咲本紀と名付けられた手帳を抱え、降る花の中に佇む蜻蛉切。美しい。

刀ミュ全般に共通する「花」で彩った、もう素晴らしいラストシーンだと思う。ブラボー! 話を戻します。 エンディングで気になるのは、村正の言動。ここではタイトル付けに悩む蜻蛉切のところへやってきた村正が、その手記を「葵咲本紀」と名付けるというシーンです。(これが新たな命を意味しており、村正派が家族として完成したという見解については別ツリー参照。)

ここで村正が、「葵咲本紀」というタイトルを付けるのが、もう…語彙力が消し飛んじゃう。 徳川家に仇なす妖刀として扱われてきた村正は、徳川家に対して決して良い感情を持っていなかった。あおさく冒頭でも、家康を「はっきりと、嫌いデス」と断言している。その中でも信康という人間の子を愛してしまったがゆえに、村正の葛藤や愛情深い性格が形成されてドラマを生んだわけですが。 葵とは葵紋=徳川家を示すもの。村正は信康を愛したが、家康を好きになることはできていなかった。しかしあおさくの任務を通じて、特に終盤の秀忠と家康の会話を聞いて、村正は家康に対する考えを改めたのだろう。物吉や秀康に対しても冷酷な態度を取っているように見えていた家康は、本当はずっと彼らに対して申し訳なさや愛情を抱えていた。物吉が幼い頃に家康に言った「悲しい時こそ笑顔ですよ」という言葉を、家康はずっと心に持ち続け、それを守っていたのだろう。自らの親代わりでもあった物吉への愛が感じられる、何度見ても泣いちゃうシーン。

村正は、家康の隠していた本心の部分を見たことで、彼への認識が改まったのかもしれない。その象徴として、村正が付けたのが「葵咲本紀」。徳川(の始祖である家康)が笑うという、妖刀村正が付けたとは思えないタイトルだった。村正なりに徳川へに対しての印象が変わり、家康に対するある種の慈しみが芽生えた結果だと私は思っている。 すごく美しいまとめ方だよなあと感心する一方で、気になる点に話を戻します。

みほとせのエンディングとあおさくのエンディング、ちょっと矛盾しているのではないかと思う。矛盾というか、違和感を覚える箇所が、前述の村正の徳川家への認識。 みほとせのエンディングでは、あおさく同様本丸でのシーンが描かれている。村正と蜻蛉切が話しているシーンで、「これを機に徳川家への印象を改めてみては」という蜻蛉切に、村正は「それとこれとは話が別デス。印象とはそうそう変わらないものなのデスよ。何年妖刀やっていると思ってるんデスか」と返す。これだと村正は徳川家に対して新たな視点は得ているが、印象は変わっていないと断言していることになる。どちらのエンディングも、任務完了後に本丸に戻ってきた際に交わしている言葉。ついみほとせで一度帰還して、あおさくで再出陣しているような気分になるけれど、そんなことはなくて。

みほとせもあおさくも、歴史通り家康が長生きして亡くなったのち、本丸に帰還した刀剣男士の姿を描いている。それなのに、みほとせの村正は徳川家への認識が改まっておらず、あおさくの村正は葵咲本紀という名前を付けるほどに認識が改まっている。

ただ、この点において矛盾とは言ったけど論理的には破綻していなくて。口では認識が改まっていない、と言っていたがタイトル付けでは葵咲本紀と名付けました、と解することもできる。どちらにも受け取れるという意味では、やっぱり脚本の上手さが際立っているなという感想に尽きるのですが。

ここでは村正の認識が改まったという話として続けます。 今度は江水を見た上での話。 後作の江水散花雪においても村正の認識が改まっていたことがわかる。それが、井伊直弼が話した藩祖・井伊直政の遺言「赤子が子守唄を聞きながら安心して眠れる世を守れ」というもの。

この遺言の内容って、家康が目指した泰平の世をそのまま指している。これを井伊直政である村正が残して去ったということは、村正もまた家康と同じ夢を残したということ。この点からも村正が徳川家に対して愛や慈しみの心を抱いていたことが感じ取れる。

これも論理的に破綻しているわけではなく、理由を付ければ地続きの話だと取ることもできるのだけど、個人的にはやっぱり村正の態度や思想において違和感があるなあという印象でした。

もう一点、違和感を追加する材料として、石切丸の手記の「タイトル記載」がある。みほとせエピローグで石切丸が手記の似顔絵を本人らに見せているシーンで見えるんだけど(配信版の2:07:48~がわかりやすいかも!)、石切丸の手記には既にタイトルが書かれている。そのタイトルが「三百年の子守唄」なんだよね。

この手記があおさくラストで葵咲本紀と名付けられるものだとしたら、ここで既にタイトルが付けられているのはおかしい。

みほとせ再演は、あおさくの直前に上演された作品。かつ、みほとせ再演では作中の複数個所において修正されている部分があった。(蜻蛉切の「父親らしい」という言葉が抜かれたとかね。)この時点であおさくの上演が決まっていることを前提に、特にあおさくに繋がる部分においては矛盾や不自然な点がないように、より繋がりやすくするための手直し等がされていたはず。そこにおいて、あの刀ミュ制作陣が、石切丸の手記(という小道具)のタイトル有無に無頓着だったとは考えにくい。

恐らくみほとせ再演のエンディングに登場する手記は、意識的に「三百年の子守唄」という文字が書かれているのではないだろうか。

さて、どうしてこうした違和感が生じているのか。

みほとせとあおさくというそれぞれの作品は、それぞれのエンディングが正解の形なのは間違いない。みほとせだけを見たら村正のエンディングの姿は妥当だし、あおさくを見たらああなるのも頷ける。さらにあおさく公演前にみほとせを再演し、それぞれのエンディング(の村正)の違いを描くことで、わざとエンディング(の村正)を対比的に描いたのかもしれない。メタ的な視点ではあるけれど。でもこれは私としては、ちょっと線は薄いかなという印象。

もうひとつ、こちらは考察めいた話になってしまうけれど私なりに考えた理由があって。みほとせのラストとあおさくのラストって、それぞれ別の世界線の話なのかもしれないという話です。結論から先に言うと、三日月が介入したことで世界線が分岐しているのではないかと考えた。

もっと限定的な話をすると、あおさくで三日月が介入したことで世界線がみほとせとあおさくに分かれ、その一方であるあおさく軸の先にあるのが江水の世界なのではないかと私は思っている。 江水の世界線へ続く理由としては、江水散花雪における井伊直政の遺言から。

もちろん、前述通り村正の徳川への認識が改まっていたことを示すシーンだとも思っているけれど、問題はその内容が史実と違っていること。史実上の井伊直政の遺言は「成敗利鈍に至りては 明の能く逆め睹るに非ざるなり」(diamond.jp/articles/-/162より)だったようです。

改めて、江水で語られた井伊直政の遺言は「赤子が子守唄を聞きながら安心して眠れる世を守れ」。こんなことを言う井伊直政は、間違いなく「あおさくの村正」だと思うのです。江水世界の井伊直弼はこの村正の遺言を信念として行動していた。そんな井伊直弼が作った世界は良い世界だった。

結果的には歴史改変、修正不可能となったために放棄されてしまったけれど。 歴史の中での小さな違和感で言えば、東京心覚での大典太の「江戸の街はこんなにも化け物が跋扈する時代だったか」という台詞にも既に表れていると思っている。あおさく(家康が生存している江戸黎明期)から始まり、心覚(天海が活躍している江戸時代)、そして江水(江戸末期)に流れるにつれて違和感が膨らんでいき、最終的には世界の放棄が行われるほどになってしまった。

※この点については江水の感想の中で改めて触れたいと思ってるのでここでは軽く述べるのみにします。

 

江水において世界が放棄された原因を辿ると、井伊直政の遺言に遡る。そしてその遺言が発せられるまでに至るには、村正の心情の変化があった。その心情の変化の理由は、信康の生存によって動いた事象を経験したことで生まれた愛だったのではないか。

つまり、村正が人を愛したか否かが、あおさく軸の世界線への分かれ道だったのかもしれない。刀ミュという作品全体に敷かれたテーマ(だと私は思っている)愛が分岐の原因になっていたところに、刀ミュの好きな部分が詰まっているんですよ。

これだから刀ミュは…!なんて勝手に妄想して高ぶっているわけですが。結果が放棄なのでバッドエンド的な印象が強くなってしまいがちだけど、これってすごく美しいまとまり方だなって。愛から始まった世界が続くのが、あの優しくて幸せで良い世界だったと思うとね。美しくて、あまりにも切ない。

あおさくなので村正派の話ばかりになってしまうけれど、この村正が愛した相手って、信康や徳川家の面々ももちろんなんだけど、構造的に理解すると蜻蛉切も重要な相手だと思っている。サビなので何度も繰り返してしまうが、あおさくでは村正と蜻蛉切が夫婦=家族として成立するまでを描いている。

これって「夫婦」っていう部分がすごく重要で、すべてのはじまりを描くのにこんなに適してる素材はないよな、と思う。その理由って、2部冒頭と絡めて考える日本創世神話の話になるんだけど…。この話は長くなりそうなので、このあと別でまとめよ。 話を放棄された世界への分岐点に戻します!

世界線の分岐について村正を起点に話してしまったけれど、ではそうなるように仕向けたのは誰かというと、それが三日月だと思う。信康さん生かしたり、物部を作ったりと散々やってくれてます。刀ミュでは三日月が何やら暗躍しているような描写が何度も描かれていたけれど、あおさくに繋がる行動もそのひとつ。長くなったけど、世界線の分岐に三日月が関わっていると思ったのはこういった理由から。 じゃあ三日月がしたいことって何なのかというと、たぶんとしか言えないけど、仲間の心を救いたいんだろうなって。

同じ終わり方でも救いのある方を選んでやりたいのかもしれない。もっと言うと、救いがない=後悔してしまうと、時間遡行軍になってしまうからとも考えられる。仲間を時間遡行軍にしないために、心を守れるようなルートへ導こうとしているのかもなって。

まあこれは全部私の妄想。考えすぎかもしれないけど、言うだけならタダ!ということで。時間遡行軍って何だろね問題などはまた改めて。