しえろう日記

刀ミュに狂った女のひとりごと

【X(旧Twitter)まとめ】歌合で示された、歌とは何かって話

【X投稿文章の再掲】

とりあえず投稿文をそのまま転記していますが、あとでまとめ直す予定です。

Xより見やすいと思いますので、こちらに再掲しています。

 

歌合で示された「歌とは何か」って話をします。 パライソといいつつ、こっちを先にまとめておいた方がわかりやすいかなあと思ったので、歌合における、歌とは何かという点について話させてください。ほんのちょっとだけ心覚にも触れます。

いやあ、歌合すごかった!2019年末から2020年初頭か、ってことはもう3年半経っているわけだけど。私としては歌合の衝撃があまりにも強かったので、3年半経った今でも圧倒され続けているのだけれど。 歌合の大筋は、松明を持ち、白を基調とした装束に身を包んだ刀剣男士が「歌合」を行う。

古今和歌集万葉集から採用した和歌を用いて、短編の物語を展開。最終的には桑名江と松井江を顕現させるというものだった。内容に触れたいところをぐっと我慢して、今回は歌の話に絞ります。 恥ずかしながら、歌合を見るまで刀ミュの「ミュ」の部分に疑問を抱いたことはなかった。

いつ歌うのか、何を歌うのか。その作品において歌そのものがどのように扱われているのか、またどのようなものであると定義づけられているのか。こういった点に、私はあまり関心を寄せていなかった。他の多くの作品がそうであるように、ミュージカルだからそりゃ歌うでしょ、というだけ。

歌合を通して、どうして「ミュージカル」刀剣乱舞なのか、ということが明示された。私はそう理解しているし、衝撃を受けた。 まず、彼らが歌をうたうタイミングについて話したい。結論から言うと、歌うタイミングは2つのルールに則っている。

彼らが歌をうたうのは、①作品のアクセントとして用いられるとき、または②自らの本心を明かすときの2場面。 いや、刀ミュに限らずどの作品もそのどっちかでしょ!というのは承知しています💦 刀ミュがすごいのは、このルールを破らなかったところであり、むやみやたらに(というと言葉は悪いですが)歌を入れこむことをしなかったところ。①と②の歌をきちんと分けていて、かつ配分が天才的だった。私だったらきっと、「良い台詞言ってるから歌にしちゃお!」とか「ここ熱い展開だから歌にしちゃお!」って歌連発させてたし、デュエットもソロも関係なくバンバン歌わせてたと思う。

ショー的な要素と作品の根幹部分をきちんと分けているところに、刀ミュの本気度や徹底された価値観というものを感じたわけです。

さて、歌の話に戻ります。

①については、言葉のまま。セリフだけでは少し間延びしそうな場面や見せ場として演出したい場面で歌がうたわれる。この場合、歌う内容は会話や説明であることがほとんど。例えば、あおさくの♪鶴の一声(作戦説明の歌)とか、江水の♪不正(タダシカラズ)(状況説明の歌)がそれに当たる。こちらはひとり歌うこともあれば、複数名で歌う場合もある。

そして②について、ここに歌とは何かが潜んでいる。

結論をいうと、自らの本心があふれ出すとき、刀ミュの刀剣男士らは歌をうたう。

こちらも例を挙げると、パライソで大倶利伽羅が歌う♪白き息とか、江水で和泉守が歌う♪散る花をとか。ちなみに、こちらはひとりで歌うことが基本だが、ふたりで歌う場合もある。あおさくで村正と蜻蛉切が歌う♪誰がために、パライソで鶴丸と大俱利伽羅が歌う♪静かの海がこれにあたる。なお2名で歌う場合は、歌うふたりが同じ想いを抱いているときに限られている。

歌として表現しているけれど、②の場合に歌われるのは、台詞というよりもその人物の心そのものなのだろう。どうしてそう思ったか、その答え(と私は勝手に思っているのですが)が歌合の中にある。やっと歌合の話の中身に入りますね!

歌合におけるキーが潜んでいるのは最初と最後の全員が登場するシーン。まずは冒頭の台詞及び歌詞から見ていきたい。 まずは♪奉踊が流れ、刀剣男士が踊りながら登場する。松明を持った鶴丸が告げるのが、以下の台詞だ。

 

歌とは 人々がその想いを万の言の葉に託したもの

歌に託された想いは 時に人非ざるもの 神々の心をも動かすという

花の香に昔を懐かしみ

鳥の囀りに耳を澄まし

風に散る草葉の露に袂を濡らし

月傾く雪の朝に春を想う

この世に生きとし生けるもの 何れか歌を詠まざりける

人も 神も 鬼も 妖も そして我らも

さあ歌え さあ遊べ

 

鶴丸による冒頭の宣言となるが、ここでもう既に歌とは何かが語られている。「人々がその想いを万の言の葉に託したもの」が歌。さらに「歌に託された想いは 時に人非ざるもの 神々の心をも動かすという」とのこと。

人が想いを歌に託し、その想いが神の心すら動かす、なんて壮大なことを言い出すわけです。そして、花鳥風月への感動を抱える者であれば、人だろうが神だろうが、鬼だろうが妖だろうが、皆歌をよめるのだと。ここで語られることは、キービジュアルの背景にもある古今和歌集の「仮名序」にある「やまとうたは ひとのこころをたねとして よろずのことのはとぞ なれりける」と同じような意味。つまり、人の心こそが歌なのだ、という前提が冒頭数分で鶴丸によって語られる。 さらに、次の♪神遊びでも歌とは何かという内容が続く。

歌詞は以下のサイトに掲載されていたので、ご参照ください。 petitlyrics.com/lyrics/2874484 内容については歌合を語る中で触れたいので、ここでは歌に限った部分に注目する。 「筆を持て」から始まる部分を見ると、以下のように続く。

「筆をもて 炙り出される本性歌を綴れ さらけ出される欲望 描きだされるは 秘められた想い」 筆を持って歌を綴る、そうすると欲望が曝け出され、秘められた想いが描き出される。 何とも赤裸々な印象を受ける。そして続くのが「筆を持て 脅かされる秩序 歌を綴れ 超えてはならぬ一線 篝火揺れて 神々の影躍る」 筆を持って歌を綴る、そうすると不可侵の一線を超え、篝火を揺らし神々が踊る、つまり神の領域に入っていくことを示唆している。 こちらについては、歌合で行う内容に触れているものだろう。

さらに後半では「歌歌う 桜咲く 音踊る ふるふる」「花を愛で 風を撫で 恋わずらふ ふるふる」とある。 ここは、私は歌を詠む喜びと状況を示しているのではないかと思った。人の心の表れである歌を競い舞い歌うことで、桜が咲き(人が笑い)楽しく踊ることができる。

また、花鳥風月を愛でたり恋煩いをしたりといった状況で、そこで生じた想いを歌に乗せると解することもできる。 なお、蜻蛉切と村正の関係性を考える際に「恋」という言葉を用いたが、刀剣男士が恋をするだろうと私が思う理由として、ここで「恋わずらう」と歌われているからというものがある。

ここでは話題が逸れてしまうので割愛します。さて、愛しいとか恋しいとか美しいとか、そういった心からの感情を歌に乗せる。そうすることで、他者や神でさえも感動させることができるのだと、そういう前提を歌合冒頭では語っているのではないだろうか。

歌合終盤でも、♪あなめでたやの中で歌について繰り返される。 「想いは 言葉へ 言葉は 歌へ 歌は あなたへ そして新たに生まれる想い」という箇所だ。 冒頭と同じように、想いが言葉になったものが歌であり、それが誰かに伝われば新たな想いが生まれるという。

これは、想いが言葉となった歌が伝われば新たな命が生まれる、という歌合での桑名・松井の顕現とダブルミーニングとなっていると思う部分でもある。人の心からの想いが歌となることで、人(だけでなく神でさえ)の心を動かすことになるということが、歌合では明言されている。 加えて、心覚の中の一節にも歌とは何かがうたわれている。五月雨江と太田道灌の♪要となる城の中で、「人はなにゆえ歌うのだろう」の問いに「心にとどめておけぬから」と回答される。

これらをまとめて刀ミュにおける歌とは何かを考えると、心から生じる想いがあふれ出して言葉となり、歌となる。そんな歌が伝わり人や神の心を動かすことができる、と理解できる。したがって、刀ミュにおける歌、特に②自らの本心を明かすときにうたわれる歌は、歌う人物が抱いた心からの想いがあふれ出した結果と言って良いのではないか。 劇中で彼らがうたう歌が、単にミュージカル作品だからという理由にとどまらない、本心を明かす手段として表現されていることが、とても尊く美しいとも感じた。

さらに、歌を依り代として刀剣男士が生まれる本丸であれば、「ミュージカル」刀剣乱舞となるのはもはや当然だなあと感動すら覚えたわけです。 本心があふれ出す場合に歌われる刀ミュの歌は、前述の通り基本的にはひとりないしふたりで歌われる。その理由は歌がその者の本心であるから。

自らの本心をベラベラと明かす、というタイプの人は現実世界においても(いるにはいるが)まれだと思う。特に刀ミュの刀剣男士は、自分の本心を抑えたり隠したりすることが多い。例えばみほとせで村正が歌う♪可惜夜の雲もそのひとつ。

♪可惜夜の雲は、夜空の下で村正がひとりで歌う。ここで歌われる歌詞を見ても、恐らくこれは当時の村正の本心だろう。だとしたら、この歌を誰かの前で歌うことができるだろうか。恐らく村正はそれをしないのではないのかと思う。

この歌に表される自身の心の闇を吐露することを、少なくともこの歌をうたった当時の村正はしないんじゃないかな。だからこそ、村正はひとりでこの歌を歌いあげる。ひとりごとに近いのかもしれない。

本音があふれ出す歌だからこそ、(人に知られなくないから、心配させたくないからなどの理由を背景に)村正に限らず歌い手は誰もいない状況でたったひとりで歌い上げる。もちろん、見せ場としての演出効果もあるのかもしれないが、本心をあふれ出させる歌のシーンは徹底してひとり。

私はそれを製作側が意図的に慎重に扱っているのではないかと深読みしました。そう思って見返すと、1部での独唱パートの多くがたまらなく切ない。 またこれを踏まえれば、ふたりで歌う場合の「良かったねえ」感がすごい。本音を共有できる、同じ想いを抱いている相手がいるというのは良いことだし、絆の深い相手だからこそ共に歌えるんだろうなと。美しいね。 まとまらないけど、歌はうたう者の本音の表れであり、1部にひとりきりで歌う場合はほぼ本音の吐露と受け取れる。

このルール的なものを前提に刀ミュを見て、感じたことを今後もぽちぽちと話していきたいと思います。いやあ、歌はいいね。