しえろう日記

刀ミュに狂った女のひとりごと

【X(旧Twitter)まとめ】刀ミュにおける「成長と色」③ 刀ミュにおけるキャラクターの成長段階の話

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【X投稿文章の再掲】

とりあえず投稿文をそのまま転記していますが、あとでまとめ直す予定です。

Xより見やすいと思いますので、こちらに再掲しています。

 

人生の巡りについて、鶴丸の台詞にあった4色と照らし合わせて白→青→(黒)→赤→黒…と繰り返すと述べたが、刀ミュにおける成長とは何なのかについて考えていきたい。

 

まず、刀ミュにおけるキャラクターの成長について。

そもそも刀ミュに限らずなんだけど、刀剣乱舞のキャラクターって、その刀が作られた年代と精神年齢があんまりリンクしていない。比較的最近作られた兼さんが一番精神的に幼いかというとそうではない。どちらかと言えばかなり古い年代に作られた粟田口の短刀たちの方が幼い印象のキャラクターとなっている。刀剣乱舞においては刀剣男士の見た目=身体的成長に精神年齢を合わせているように見える。これは、刀ミュにおいても同様。今剣は幼い子どもとして扱われるし、和泉守はフレッシュさはあるが青年として扱われる。

顕現すぐでもきちんと言葉も話せるし、感覚や振る舞いも(性格による差はあれど)見た目と合致している。つまり顕現したての時点で、見た目年齢同等の精神を持つキャラクターとして登場する。

見た目=精神年齢となると、刀ミュには見た目=精神年齢が10代後半以上のキャラクターが多いんじゃないかなと。完全に余談だけど、刀ミュの俳優さんたち年齢不詳者多すぎません?美がカンストすると年齢不詳になるんだなあとしみじみ思います。

 

さてさて、では刀ミュの刀剣男士がどう成長するかというと、まず見た目は変わらない。つまり、成長と言えば経験による心の成長になるわけです。その心の成長のベースや素材になるのが愛なんじゃないか、と私は分析しています。

また、刀剣男士は人の体を得て顕現する。歌合であったように、刀剣男士となる瞬間に彼らは心を得ている。つまり、刀時代の彼らには「記憶」はあるが「心」はないのではないかと思っている。それが刀剣男士となった瞬間に感情として胸に宿るわけである。そりゃあ五陰盛苦感じちゃうよねっていう。

したがって、だいたい見た目と同じくらいの精神性は持ちつつも、任務を通じて対面した出来事を通して持つ感情は初めて経験するもの。そんな刀剣男士がどう成長していくのか、というのは刀ミュの大きな見どころのひとつだと思っています。

 

 

まずは成長段階について。基本的には刀ミュに登場する刀剣男士たちも、エリクソンの発達段階(課題)なぞらえて描かれているように感じた。エリクソンの発達段階については、発達心理学者のエリクソン先生が提唱した8段階のステージのこと。私よりも以下のサイトさんの方が説明上手なので、ぜひご参照ください。

ライフサイクル | 武蔵浦和メンタルクリニック | さいたま市南区

 

このエリクソンによる発達段階は、生まれてすぐの0か月~1歳半頃までの乳児期をはじめ、1歳半~3歳の幼児期初期、3歳~6歳の幼児期後期、6歳~13歳の学童期、13歳~20歳の青年期、20歳~40歳の成人期、40歳~65歳の壮年期、そして65歳以上の老年期までの8段階に分かれている。※分け方については、別説もあるのでだいたいこんな感じと捉えていただければ。

刀ミュの場合、先に述べたとおり見た目年齢に照らし合わせると、ほとんどのキャラクターが青年期くらいの見た目にある。したがって、刀剣男士らは顕現時点で青年期程度の精神を持っていると仮定する。ここを起点に、様々な経験を経て刀剣男士が心を持った人として成長していく姿が刀ミュでは描かれているのではないだろうか、と考えたわけです。

 

各段階を見ていくと、まず青年期の課題は自我同一性(アイデンティティ)の確立。つまり、自分は何者であるのかと自己を見つめ、自分の役割に気付くこと。刀ミュにおいては「役割」という言葉はしばしば用いられてきた。刀剣男士としての自分の役割に気付くことができれば、忠誠心や帰属感に繋がる。自分の役割を受け入れて刀剣男士のひとりとして前を向いて進んでいく姿は、刀ミュの作品でたくさん描かれてきた。これこそ、青年期の発達課題をクリアする=成長する姿ではないかと私は感じたわけです。

 

というわけで、刀ミュでの具体的な例を挙げて見ていきたい。

青年期の例として、顕現したての刀剣男士はほぼ最初にこの課題にぶち当たる。大切な元主を前にして、自分はどうするべきなのか。過去の経験を目の当たりにして、刀剣男士として任務を遂行することができるのか。パライソなら、先に述べた通り浦島や松井江がこの段階に位置していた。特に松井は、刀だった時代のトラウマとも言える島原の乱の記憶をもって、再度島原の乱の任務に当たる。キリシタン達を撫で斬りにしなければならないという状況で、刀剣男士として自分の役割を全うできるかどうかが松井の課題だった。鶴丸が松井に対して発した「それが嫌なら刀剣男士辞めるかい?」という台詞なんて、刀剣男士という役割を松井が得るかどうかを問うシーンはとてもわかりやすい。松井にとってのパライソは、自らの刀剣男士としてのアイデンティティの確立がかかった出陣だったと言える。結果的に、元主である松井興長の言動に心を動かされて松井は任務をこなす=キリシタンの人間を斬ることができるようになった。つまり松井は最終的には刀剣男士としての自らの役割を見つけ、アイデンティティを確立できたと言える。

 

この刀剣男士としてのアイデンティティを確立する段階を、先に述べた「青」だと私は考えている。青年という言葉通り、まだフレッシュで自らの役割が何なのかを模索している段階。多くの場合、刀ミュではまだ経験の浅い刀剣男士が青=青年期のフェーズにいる状態だと思っている。歴史を守るとは何か、かつての主と向き合ったときに刀剣男士としての自分はどのような行動に出るか、こういった課題と対峙するのは青年期=青のフェーズにいる刀剣男士。自分とは何か、何ができるのか、どう生きるのかという自分の役割と課題と向き合う彼らはめちゃくちゃ熱いよね。

 

さて、そんな青年期を過ぎたら、次に訪れるのは成人期。ここでの課題は信頼できる人物との親密な関係の構築。ここで大切な人や仲間と良い関係=親密性を築ければ、幸福や愛を得ることができる。一方で、他者と深くかかわらずに回避や距離をとれば孤立に繋がっていく。こうした課題も、刀ミュでは多く毎回描かれてきた。そうした同部隊の仲間や特別な誰かとの絆が深まるエピソードは、成人期の発達課題になぞらえることができる。

 

成人期は、あおさくの村正が顕著な例だろう。妖刀と呼ばれた自分が刀剣男士として任務に当たる中で、蜻蛉切という特別な人物との親密性を築く。自らの命を懸けても守りたい存在としてお互いを認識することで、村正は親密性を獲得することができた。もし村正が蜻蛉切との親密な関係を築けずに、妖刀としてひとりきりで生きていくことを選択していたら、村正は孤立し成長は停滞してしまっていただろう。村正を例に挙げたが、この成人期には長曽祢や堀川らも該当する。

 

こうした他者との関わりの中で愛情や親密性を育んでいく成人期の段階は、「赤」のフェーズだと考えられる。他者との愛がキーワードになるので、イメージ的にも赤がぴったりなんじゃないかなって。自分が刀剣男士としてどう任務に当たるかというアイデンティティは確立できた上で、仲間や大切な人のために何ができるのか。もしかしたらそれは、大切な人のために自らが刃を振るうことかもしれないし、つらい役割を引き受けることかもしれないし、嘘をつくことかもしれない。大切な誰かのために、自分が(犠牲になるような)行動をするのか、結果としてその相手とどのような関係性を築いていくのか。これが成人期=赤のフェーズにいる刀剣男士だと思っている。

また、この赤段階が一区切りでもあると思っている。それはこの成人期=赤の段階をクリアした刀剣男士が、極の修行に出かけるからである。過去作品でも「誰かのために戦えるものは強い」と語られた通り、このフェーズに到達した刀剣男士は愛情深く、そして強い。修行に行くのも頷ける。例に挙げた村正はじめ蜻蛉切も、長曽祢、堀川、安定、和泉守、今剣も、修行に行く直前の出陣では、皆誰かのためを思って行動している。今剣を例に挙げると、あつかしでは青年期の課題である、刀剣男士としての自己の確立が描かれており、つはものではその上で成人期の課題となる、自分に居場所をくれた岩融を思いやり彼が傷つかない選択をしようとする姿が描かれる。そしてつはものの出陣後、修行へと向かっている。成長過程がわかりやすいキャラクターのひとりだと思う。

 

さて、成人期も過ぎたら、次は壮年期になる。壮年期の課題となるのは世代性の獲得、つまり次の世代や後輩を育てていくフェーズ。この課題がクリアできないと、次世代と関われない、自分のことだけを考える自己停滞となってしまう。課題をクリア=次の世代に継承していくことで、世話の能力を得られる。刀ミュでもこの段階に達した刀剣男士が出ている。つまり、この段階に達しているのは基本的には修行から帰った極の刀剣男士。段階的には「白」と言っても良いのではないだろうか。

 

この段階がわかりやすいのが我らが兼さん。修行から戻った和泉守は、顕現してから日の浅い後輩刀剣男士たちの面倒を見る姿が顕著に描かれる。自分が経験してきたことを踏まえ、肥前はじめ若手の刀剣男士に寄り添う姿勢が印象的だった。自分の役割や誰かへの愛をもちろん抱えながら、後輩刀剣男士という次世代を育てようと世話をしている段階である。非常に頼りがいのある兄貴分として立派な姿が描かれており、これはもうもう一段成長したと言っていいのではないかと思うわけです。

ちなみに、パライソでは鶴丸も、また江水では山姥切国広も後輩育成をしているので、成長段階的には極と変わらないと判断できる。のだが、極姿では描かれていない。これに関しては、後悔といった部分が関連しているのかなあ、なんてぼんやり思っているのだが、まだ私自身の考えがまとまっていないので、今回は触れないでおきます。

 

刀ミュって、こうした成長過程を描く物語が決して無機質ではないところが本当に素晴らしい。出陣して、元主と戦うことに葛藤して、敵を倒して、仲間との絆を得て、これからも頑張るぜ!という基本形を持ったストーリーではあるんだけど、その過程ひとつひとつに必ず愛というものが詰まっている。それは自己愛でもあるし、元主や触れ合った人間、仲間や特別な関係の人物との愛など、誰に向いているのかも、どういう形で示す愛なのかもそれぞれ違うけど、物語のどこを切り取っても愛を欠くことがない。先述した成長段階を1段上がる際にも、必ず彼らは愛に触れている。パライソの中で天草四郎が歌った「愛し愛され許され生きる」ということは、人として生きていく上で、また成長していく上で欠かせないものなのだろうなって。自分を愛し、他者を愛し、愛されることで人は次のステップに行けるんじゃないかな、なんて感想を抱きました。

 

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