しえろう日記

刀ミュに狂った女のひとりごと

【X(旧Twitter)まとめ】静かの海のパライソの「パライソ」って何だって話

【X投稿文章の再掲】

とりあえず投稿文をそのまま転記していますが、あとでまとめ直す予定です。

Xより見やすいと思いますので、こちらに再掲しています。

 

静かの海のパライソの「パライソ」って何だって話をします。

作中には「パライソ」という言葉が何度も出てくる。私は、作中のパライソを言葉そのままに天国、つまり平和な世を表す言葉として受け取った。戦がなく、人々が笑って暮らせる穏やかな場所こそがパライソ。パライソに登場する人々は、皆そんな「パライソ」を目指して懸命に生きた。パライソがゲシュタルト崩壊しそう。

 

さて、この「パライソ」は違う物事としても繰り返して描かれる。まずは冒頭で歌われる♪オロロン子守唄。歌詞の内容から、島原地方のキリシタンによって歌われた子守唄であることがわかる。もうこれ、初見の時に衝撃が走った。やられたなと思いましたね。

言わずもがなといったところですが、ここで歌われるのが子守唄である点がすごく重要で。みほとせから始まる平和の象徴って、子守唄じゃないですか。赤子が子守唄を聞いて安心して眠れる世、つまり子守唄が歌われているということは、その世の中が平和であるということ。刀ミュ全体における平和の象徴が子守唄なんだよね。

こんな話をすると、みほとせで描かれたワードが刀ミュの基本ルールを敷いているっていう話に飛びたくなるんだけど、それはまた別途にします。またこんど!

さて話を戻します。冒頭で子守唄が歌われたということは、あの時点では彼らは既に平和なパライソにいた。そんなパライソ=安寧の世を壊されたことをきっかけに、彼らは反乱を起こし、島原の乱へと繋がっていってしまう。無情よな。結果、今までいた場所を取り戻したかっただけの多くの人が命を散らしていった。少なくとも作中に描かれた人間たちは、誰も高望みはしていなかったように見える。理想郷を築くというよりは、過去の幸せを取り戻したかっただけ。そう思うと、時間遡行軍というか、過去を取り戻したいと思う気持ちって、人間の誰しもが持つ気持ちだよなって。個人的にしんみりした話になってしまったので、話題を「パライソ」に戻します。

 

「パライソ」=平和を意味する言葉としては、海が挙げられる。

まず、パライソにおける海は2つある。ひとつは、月の平原である静かの海。タイトルにもある静かの海とは、元の意味は月にある平原のひとつ。鶴丸と大倶利伽羅が歌う♪静かの海の中では、「かつての足跡が消えることのない 穏やかな場所」であり「そこに風は吹かない 退屈な場所さ」とある。なお、刀ミュにおける風とは、♪無常の風でも♪かざぐるまでも歌われるように、時の流れを意味している。時に無情なまでの出来事を起こすのが風。鶴丸のソロ♪無常の風では、鶴丸風が吹くときを待ちわびており、ここからは鶴丸が風による(予想外の)出来事を期待していることも描写される。

さて、静かの海は足跡が消えない=風によって土が流されることがない。そして風の吹かない場所だそうだ。つまり時が流れずに止まっている状態ということ。驚きを欲する鶴丸にとってはまさに「退屈な場所」であることは間違いないだろう。しかし、♪静かの海の最後は「いつか行ってみたいな」という鶴丸、そしてそれに同意する大倶利伽羅の台詞で締めくくられる。鶴丸にとっては望まない退屈な場所なのに、行ってみたいと言う。それはつまり、静かの海が安寧の地であるということ。まさに安らかに眠れる天国なのだろう。

さらに物語の終盤で、鶴丸は海に向かって島原の乱を嘆いて、「連れてってやれよ」「静かの海へ、パライソへ」と叫ぶ。静かの海を天国として捉えているからこそ、こうした台詞が出てきたんだろうなって。

天国を死後に行ける場所として意識するとなると、いつか行ってみたいと話す鶴丸と大俱利伽羅の台詞も、またひとつ違って聞こえる。なんだか刀ミュの刀剣男士って、自らが折れたら地獄に行くと思っている人が多そうなイメージだからさ。

 

もうひとつの海は、そのままの「海」。立地的またそれを表現する演出的な意味からも、作品全体に海のイメージを持つ人も多いんじゃないかな。鶴丸ソロの♪無常の風は「穏やかな海のおもて」で始まり、海上に吹く風とその風によって生じる波を歌っている。太陽に照らされて赤く染まれば血の表現として、青く輝けば空と同化した存在として、パライソは初めから終わりまで、海に表情を与え続ける。この徹底ぶりはいっそ恐ろしい。それぞれのシーンについてはまた別途。

 

さて海とは何か、という答えのひとつが言葉として出るのは、浦島・日向の歌う♪海はただそこにある でわかる。海は、空腹を満たしてくれる場所であり、涙を流しても流し去ってくれる場所。あおさくの話になるのだが、信康はどうして戦が起きるのかという問いに、「腹が減るから」という明確な答えを出している。腹が膨れれば、戦なんて無くなると。ここにきて海=腹を満たす場所の意味を与えるといことは、つまり海もまた「パライソ」であると言える。また、そんな海=パライソは、涙を流しても受け止めてくれる場所、つまり自分がありのままでいられる場所でもあるということ。本作での鶴丸が顕著だったけど、自分の本当の気持ちや真実を隠して振る舞う者にとって、裏表の無い感情をむき出しにできる場所って、貴重なんじゃないかな。以前歌合の話で触れたけれど、心からの真実を表現する歌は、基本的にひとりでないと歌えない。本性が暴かれてしまうから、そうすると一線を越えてしまうから。同様に、本心を出せる場面ってきっと人前では見せられないことが多い。大人になればなるほど、人前で涙って流せないじゃないですか。それを受け止めてくれるのが海。心が壊れそうになった時に、本心を受け止めて潮風が頬を撫でてくれる場所が海なんだよね。鶴丸が終盤で本音を叫ぶことができるのは、すべてをただ受け止めてくれる海だったからなんだろうな。

 

さて、もっと露骨な「パライソ」について。作中でキリシタンや農民たちは希望の象徴として「パライソ」という言葉を使った。天草四郎に成り代わった浦島と日向も、それぞれ「パライソ」という言葉を用いて人々を集めている。浦島は元気が出る魔法の言葉として、日向は自由を再び取り戻すための言葉として。一揆に加わった人たちも、そのほとんどが「パライソとは何か」という答えに重きを置いているわけではなかった。それぞれにとっての希望を「パライソ」と言い換えていたにすぎない。ちょっと嫌な言い方だけど、人々にとって都合のいい希望が「パライソ」という言葉として発されていた。また、希望とは光とも言い換えられている。右衛門作は天草四郎を「我らの光」と呼び、日向に集った人々を見て「人は光を求めている」と言っていた。光についてはまたのちほど軽く触れます。

 

長くなったけど、「パライソ」は平穏に暮らしたいという人々の希望を表す言葉なんだろうな。そのモチーフとして、同じく「パライソ」の意味を含んだ月や海といったモチーフを場面に登場させている。観客としては、常に様々な「パライソ」を見せ続けられている状態となってるんだよね。なおかつ上手いのが、パライソモチーフである月や海を、平和の象徴としての側面だけでなく、真逆の印象を与えるものとしても描いているところ。この件については別途。とにかく、「パライソ」の扱いひとつ取ってもどこまでも凝っている。まだパライソの話序盤なのに、言いたいことがあふれてしまう。さすが刀ミュ。