しえろう日記

刀ミュに狂った女のひとりごと

【X(旧Twitter)まとめ】刀ミュにおける「成長と色」② 成長とともに巡る4色とパライソのペンラカラーの話

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【X投稿文章の再掲】

とりあえず投稿文をそのまま転記していますが、あとでまとめ直す予定です。

Xより見やすいと思いますので、こちらに再掲しています。

 

前述の通り、パライソでよく出てきた白・黒・青・赤の4色は、刀ミュで描かれる人の人生の段階に象徴的に表現されている。

先に結論からまとめると、人は以下の順に人生の段階を巡る。

誕生→未熟→成熟→老死→再生(誕生)→未熟→成熟→老死→……

かなり偏っているし大雑把だけど、人生ってこんな順番で巡ると(刀ミュにおいては)言えるのではないか、と私は思っています。再生=生まれ変わりがあるかどうかという点については、個々の死生観等によると思いますが、「めぐる」「繰り返す」というテーマを散々用いてきた刀ミュにおいては、再生という段階を置いても良いのではないかという私なりの解釈です。

さて、①誕生②未熟③成熟④老死というのは、先に述べた4色が持つ意味と重なる。①誕生=生まれたままの無垢な「白」②未熟=発展途上でフレッシュな青春の「青」③成熟=経験を積んで熟した「赤」④老死=すべてを終えて老い死ぬ「黒」、といった具合。つまり人生は、白→青→赤→黒→また白……と巡っていくのではないだろうか。その中で、心の成長によって移行できる青から赤への移り変わりが、見事かつ丁寧に描かれるのが刀ミュの特徴であり面白いところのひとつだと思っている。上手く言えないけど、こう、トマトの実が色づく過程を描いているというか…。

 

パライソでの表現ではこれらの段階を、それぞれ空や海の色と照らし合わせながら描いている。詳しく述べるとここだけでかなりのボリュームになってしまうので省略するが、松井と豊前の♪明け暗れ刻でわかるように、松井にとっての青→赤への成長は夜明けとして表現される。ここで一点、4色の巡りに注釈を加える。赤=夜明けとなると、赤の前段階は夜=黒ということになる。青じゃないよね。これは、「夜明け前が一番暗い」ことの表現ではないかと思う。何事も乗り越えなければならない際には、痛みが伴う。明け暗れ刻、つまり赤黒いとき。赤を迎える前には黒が挟まるというように受け取ることができる。それを空の色とリンクさせて、まだ何も知らない青空→真っ暗な夜空→朝焼けを迎える、みたいな。これを踏まえると、人生の巡りは、白→青→(黒)→赤→黒→白…と言えんじゃないかな。パライソの松井は、青→黒→赤の移行を象徴的に見せたキャラクターだったのではないだろうか。

 

ここで、パライソの各キャラのイメージ(ペンラ)カラーと、彼らが今置かれている段階=色がリンクしているというのが、またすごい。もちろん、すべて私の妄想の範囲なので、証拠として提示するつもりは毛頭ないのですが。まあ、偶然にしては都合が良すぎるようにさえ思う担当カラーなんだよね。ちなみに、このペンラカラーとキャラの成長段階がリンクしているのはパライソだけです。あくまでパライソはたまたま一致していたね、という話で聞いていただけると幸いです。

 

詳しくはキャラクターごとの解釈の際に触れられればと思っているけれど、簡単に色ごとに見ていきたい。まず青系カラーの浦島と松井。浦島がいつ顕現したかは不明だが、兄らから聞いた話が多いなど、その言動からパライソ出陣時点でそこまで経験値が豊富であるとは思えない。兄弟の運命に対しては、刀剣男士としての役割よりも彼らを守ろうとする行動が目立った。パライソ出陣を終えるまで、浦島はまだ自らのアイデンティティが確立できていない段階なのではないかと推察できる。松井は歌合で顕現したばかりの新人であり、冒頭の豊前との会話からもまだ日が浅いことがわかる。明言されていないが、恐らく松井にとってはパライソ出陣が初陣だったのだろう。まだ心を得たばかりの松井は、自らの過去に向き合うことができておらず、刀剣男士としての役割を自認していなかった。出陣を通して、松井は過去や己と向き合い、刀剣男士として生きていくというアイデンティティを確立するまでが描かれている。刀剣男士として生きるとは、任務とはどういうことか。出陣時にこれを知らない段階だった浦島と松井は、フェーズとしては「青」に分類することができる。

つづいて赤系カラーの大倶利伽羅豊前、日向。彼らはすでに刀剣男士として任務に当たる覚悟ができている状態で出陣している。まだ、共通しているのは、誰かのために刃を振るえるという点。特別なシーンとして印象付けてはいないが、大俱利伽羅、豊前、日向の3名は、人を斬ることに躊躇を見せない。斬れない仲間の代わりに斬る場面もあった。人を斬れるということは、刀剣男士として歴史を守ること=人を斬ることが自らの役割であると認識し、刀剣男士としてのアイデンティティを確立している。今自分ができることとして、人を斬る強さを持つ人物ということ。決して冷たいわけではない、むしろ仲間の代わりに自らが嫌な役を引き受けるような人物である。彼ら3名は、すでにアイデンティティを確立した上で、さらに仲間のサポートをできる「赤」のフェーズと言えるのではないだろうか。

鶴丸はひとり白系だが、私としては、鶴丸は一度死んだ上で再生した「白」なのではないかと思っている。死んだとは折れたということではなく、一度死ぬほどの絶望を経験したあとの人物なのではないかということ。のちに鶴丸・大俱利伽羅双騎で描かれる描写からもそう思うし、パライソの鶴丸は赤フェーズを超えて達観している印象を受ける。しかし鶴丸を老獪と評するには、ずる賢さなどが感じられなかった。経験豊富で絶望も見てきた人物。けれど知恵や経験をもって巧妙に立ち振る舞っているというよりは、どこか純粋で希望を持っている状態、まだまだこの世界も捨てたものではないという意識を持っているように感じた。新たな希望としての若い仲間がいるのが大きいのではないかと私は思っている。絶望してしまっている人、すべて自分だけでなんとかしようとしている人は、後輩を育てようとは思わないと思うので。青でも赤でも、黒でもなくそれを超えた白が鶴丸だったんじゃないかなって。

 

青、赤、白とそれぞれのペンラカラーごとにキャラクターを分けたけれども、じゃあ、刀ミュにおける成長ってどのような段階で描かれるんだろう、という内容を続いて述べたい。述べたいのですが、これも長くなったので分けます。

 

 

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【X(旧Twitter)まとめ】刀ミュにおける「成長と色」① 刀ミュにおける色の扱いについて

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【X投稿文章の再掲】

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白・黒・赤・青ってなんだ、って話。

 

きっかけから言うと、パライソでの鶴丸の発言。鶴丸は戦とは何かという話の中で、「白と黒に分かれた戦なんてあり得ない。白の中にも黒がいて、黒の中にも白がいる。赤だって青だっているかもしれない、どちらにも」と言う。白と黒の話は、まあ話の流れでわかる。でも赤と青って何だ?って思ったところから考えて、至った解釈がこちらです。

 

色って、古くは「赤、青、白、黒」の4色しかなかったらしい。赤い、黒いといった形容詞として使えるし、白々~、青々~と連続させて副詞的に用いることもできる特殊な色がこの4色。ちょうど、鶴丸が挙げた4つの色と同じなんだよね。パライソの中では、場面によってこれらの色が象徴的に用いられている。舞台セットや照明を色付けしたり、歌詞の中に入っていたりと仕込みがすごいのよ。パライソを見ていると、初めから終わりまでこの4色が出続ける。恐ろしいことに、パライソ出陣の6振りのペンライトカラーも、このどれかに分類される。今回黄色とか紫担当はいないんだよね。わざとじゃないかとすら思うレベルです。

 

ではそれぞれの色の意味を考えていきたい。刀ミュが、何に対してもこの世は「二面性がある、表裏一体である」という考えをベースに作られている、ということを意識してみていくこととする。

ざっくりとではあるが、色が元々持つ意味とパライソにおける意味は以下の通り。

 

白:著し(はっきりしている)、白ける、明るさ、光、確かな事実

黒:暗し、悪、欠けている、闇、闇に葬られた真実

赤:明るい、太陽、血、情熱

青:淡い、未熟、空と海、冷静

 

また、それぞれの色に対して、具体的にどんなシーンや物事が投影されていたかというと、またざっくりながら以下の通りまとめる。

 

白:一揆軍の服、鶴丸(髪や服の色、ペンライト)、天草四郎(しろう=しろ)、月の見えている部分

黒:夜のシーン、大倶利伽羅(髪は服の色)

赤:太陽(夕日)、赤く染まる月、血(=戦)、血潮(赤い頬)、大俱利伽羅、豊前、日向(ペンライト)

青:空・海(昼間)、浦島、松井(ペンライト)

※大倶利伽羅のソロ曲は「白き息」だったり、歌詞の中に赤が入っていることも多かったり、この他にも色を用いた表現は多数ある。

 

各色の意味は以上の通りだが、どの色に与えられた意味も、刀ミュらしく二面性を持っている。

白なら、光や天草四郎=神のイメージを与えられ、一揆軍の服装として視覚的に表現される。ただし、そんな一揆軍は神の名のもとに暴虐な行為をするなど、白=正義とは言い切れない描写がされていた。また、光の元にあるという観点で白は事実=確定的事象も表す。月の見えている部分を白く映していることからも、事実は白で表現される。

※月については別ツリー参照

黒は、基本的には悪や闇、夜のイメージ。ただし、隠された真実に心が救われることもある。月で言えば白く見えている部分=事実、であれば見えていない黒い部分=真実と解することができる。真実を知る、共有することで救われる心がある以上、黒=悪と言い切ることはできない。

赤は、パライソでは特に血や戦の印象が強く、死のイメージに結びつきやすい。一方で、血が通っている生の表現でもある。あおさくでは信康が「生きているのだと教えてくれる」とするのが血潮。パライソでも正吉(弟)の頬の色、梅干しの色など、生きている・生命力にあふれているもの、熟したものも赤色で表現された。

青は、一般でも作中でも海や空のイメージ。あおさくで青春というキーワードが出ていたので触れると、「青い春」というように、青春も青色で結びつけられる。青春=若いというのは勢いや純粋さがあって、パライソ作中の浦島なんかその代表例。一方で、青二才といったように、青は未熟さを意味する色でもある。パライソにはおらんけど、三日月宗近さんも青衣だよね。

あ、今気づいたけど青いって葵じゃんね。やっぱりあおさくって青春(ラブ)ストーリーとして見ると面白いな。

 

さて、これら4色は2色ずつ対極にある色として位置づけることができる。色だけを図式化すれば、赤と黒、白と青という対比ができるのでしょうが、今回の鶴丸の発言しかり、刀ミュでは白と黒、赤と青が対比的に描かれることが多いので、こちらの2色同士が対極に位置している色として扱い考えたい。

先述の通り、どちらが良いわけではない。すべて二面性を持っていることを理解したうえで、ものすごく簡素化すると、「白:黒=事実や正義:真実や悪」、そして「赤:青=成熟:未熟」という式ができる。ひとまず、これを刀ミュにおける色の定義と仮定します。

さあ長くなってきたので一旦区切ります。

 

 

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【X(旧Twitter)まとめ】刀ミュにおける「月」の効果の話

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【X投稿文章の再掲】

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先に話した真実と事実の話にかなり関わってくるのですが、パライソを軸に、刀ミュにおける月について考えていきたいと思います。月って何だっていう内容的な話もだけど、おそらく演出的な話になる予定です。

 

パライソに限らず、刀ミュって作品の中でめっちゃくちゃ月が出てくるじゃないですか。何かあっちゃあ背後に月、意味ありげに出てくる月。三日月だったり満月だったり。刀ミュにおいて背景に月が出てくる場合は、夜だという表現の他にも意味を持たせていることが多い。じゃあどんな場合にどんな月が出てくるのか。気になって仕方がなかったので、月が何を意味しているのかを私なりに分析してみました。そんな「刀ミュの月」の話をしたいと思います。

 

まずは忘れてはおけない三日月宗近さん。刀ミュでも「三日月宗近機能」を持っているなど、何やら暗躍している様子。その名前とリンクさせて、三日月宗近が関与している場合や登場人物が彼の話をしている場合に、三日月が浮かんでいることが多い。パライソで言えば、幽閉された右衛門作と鶴丸が話しているシーン。

鶴丸が三日月を匂わせるような内容の話をしているときに、背景に三日月が出されている。

 

さて、三日月宗近の匂わせ以外の場合。

結論から言うと、満月は真実=心理的事象を表し、三日月は事実=確定的事象を表している。

 

つまり、真実が描かれているシーンではバックに満月が出ていて、事実が描かれているシーンではバックに三日月が出ている。その他にも、月の映像の映し方によって舞台上がどんな状況なのかを知ることができる。パライソの話をしていたところなので、見逃している部分もあるかもしれないけど、パライソ内で目立つ月の演出を挙げる。なお、パライソの月って太陽と混同(させようと)する場面が多いんだけど、その件は割愛して、今回は月に限った話をします。

 

まずは、刀剣男士が出陣後すぐに天草四郎が死亡。その後天草四郎に成り代わろうと鶴丸が言い出すシーン、ここでは満月が出ているが、雲でその半分が隠れている状態。その後、キリシタン側の実情がわかり、島原の乱に対して違う見方をし始めた刀剣男士たち。鶴丸豊前、日向、大俱利伽羅がいる場での戦をする理由についての問答を通して、鶴丸は対して戦を間違いと表現する。そのシーンの前後でも満月が出ており、その間には雲がかかったり晴れたりを繰り返す。ここはものすごく顕著で、台詞に連動するように月にかかる雲が動いていく。大倶利伽羅の「やめておけ。考えるだけ無駄だということだ、今はな」の台詞では満月の下半分は雲で埋もれてしまう。その後、浦島が一揆勢の兄弟の兄から、母親の死の真相を聞いた際には雲がない満月。鶴丸と大俱利伽羅がふたりで♪静かの海を歌う際には上部側が見切れている大きな満月が出ている。その直後に松井が♪明け暗れ刻を歌うときには真っ赤な満月だった(色については別途述べるので、今回は例としてだけ)。前述した、幽閉された右衛門作と鶴丸のシーンでは三日月。三日月宗近暗喩としては、終盤の物部登場シーンでも三日月だ。その間にある一揆軍が撫で斬りにされる場面の松井興長のシーンでも三日月が見える。シーンとしてはまだあるのだけれど、いくつか拾うとこんな感じ。挙げてみるとわかる通り、パライソでは場面効果として非常に多く月が登場している。

もちろん、当日の月の月齢に合わせているシーンもあるのだけれど、刀ミュ特にパライソでは、丸い満月が出ている時には真実が明かされていて、満月が雲で隠れているなら何かしらの真実を隠すまたは隠そうとしている。三日月の場合は三日月宗近の関与、そして事実を表現している。っていうのがルールとして敷かれているのではないかと思った。

 

なお、軽く他作品以外にも触れると、心覚では例えば冒頭の背景の満月が本来とは逆方向に欠けていく。これは過去に遡ることの表現であり、心覚の出陣はどんどん古い時代に飛ぶ形になっている。また真実に触れる際には、満月から三日月部分を欠けさせた面を背景として映している。ここは詳しくは心覚の話のときにできたらいいな。

江水では、放棄される世界で出ている月が反転している(和泉守と山姥切がふたりで話しているシーンの後ろにある満月がわかりやすいかも)。つまり、もうあの世界が通常の世界ではなくなっているという表現だと思う。とまあ、ちょっと触れたらきりがないのでこのくらいにしておくけれど、刀ミュは月を使った演出が細かいしすごいしすごいしすごい!

 

これ、私が勝手な解釈をしているだけという前提として聞いて欲しいのですが、このルールをもって刀ミュを見ていくのもまた面白い。先にも挙げたけど、特にパライソ以降、心覚と江水は月の効果がえげつないのでおすすめです。月の話はまだまだしたいので、これも作品ごとの話をしていく際に触れたいと思います。思いがあふれすぎて延々と話していられる。そう、それがミュージカル刀剣乱舞

 

【X(旧Twitter)まとめ】パライソの「事実と真実」② パライソの鶴丸による、真実から目を背けさせる構造の話

【X投稿文章の再掲】

とりあえず投稿文をそのまま転記していますが、あとでまとめ直す予定です。

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パライソの鶴丸は、任務を遂行するために真実から意識的に目を反らした。なおかつパライソのすごいところって、右衛門作側の真実を観客にも見せないまま終わるところ。御涙頂戴に振り切らない、刀ミュのカッコイイところだとも思っていて。

右衛門作がどうして乱を起こすに至ったのかの理由を観客に見せていたら、きっと観客はキリシタン側に感情移入して、キリシタン側が一方的(もしくはやや比重が大きい)被害者に見えてしまうのではないだろうか。もしここで涙ながらに右衛門作が「皆と平和に生きるためには仕方なかった。愛する妻と子を守りたかったんだ」なんて真実を吐露したら、観客は同情し心を動かされるだろう。同時に、彼に肩入れしたくなってしまうはずだ。鶴丸もこの現象が自らに起きないように、彼の言葉を遮った。自分が一方に肩入れしてしまっては、粛々と事実=歴史を守るという任務が遂行できなくなってしまうから。

すこし飛躍すると、鶴丸が右衛門作の言葉を遮ってくれたおかげで、我々観客も肩入れしない視線でパライソを見ることができていた、ということにもなる。パライソを最後まで見たときの印象って、(少なくとも私は)誰を責めたらよいか誰に同情したらよいかわからない、だった。特にネームド格のキャラクターには、誰も悪人なんていない。それぞれがそれぞれの正義や理由を持って生き戦っていた。兄弟がかわいそうだから幕府側が嫌いになったかというと、そうではない。幕府が皆殺しを選択する理由を知ったからといって、キリシタン側を悪の組織として見られるかというと、それはできない。どちらも悪くない、そういう印象じゃないだろうか。これって、この作品自体が観客に与える印象が、ものすごく巧妙かつ繊細に操作されていて、どちらかに偏った視点を生まないようになっているからじゃないかな。そのひとつが、鶴丸によって右衛門作に真実を開示させない、という手法だったんだと思っています。

 

フラットという点から述べると、事実も真実もどちらが正解というものではない。今回は任務遂行という事実のために真実から目を伏せて戦う鶴丸の姿が印象的だったけど、物事の根幹や出来事の根底には必ず真実がある。なお、それが描かれたのが心覚だったなって。事実を完遂する物語であるパライソと真実を辿る心覚は、ある意味で対局にある作品同士なのかもしれない。

 

さてさて、鶴丸の台詞のように「(真実は)どうだっていい、大事なのは事実だ」という言葉って、キリシタン側の心を守る手法としても使われていた。右衛門作は、日向を天草四郎に仕立て上げて兵を集めたけれど、嘘っぱちだという言葉に対して「嘘ではない!これは光だ」と返す。日向という希望の光=真実は作り上げられた偶像にすぎないけれど、事実人の心を救っている。これは、必ずしも真実だけが心を救うわけじゃないってことでしょう。

刀ミュでは裏も表も一緒、表裏一体だという表現がよくされる。パライソ内でも、どちらも正義・悪ではないと扱われる。同様に、真実と事実もどちらが正解というものではないということが描かれている。

こうした優しい嘘のように、真実を隠すことで心を守ることができる。真実を隠すというと、一揆軍の兄弟でも、兄は母親が死んだ事実を弟に隠していた。真実を知らなければ守れる心があることを、兄も知っていたからだろう。確かに真実を知ることで救われることもあるけれど、真実を隠すことで守れる心もある。

 

詳しくは鶴丸の話の際に触れようと思っているけど、とにかくパライソは鶴丸が男前すぎる。先にも述べたけど、部隊どころかメタ的には観客の感情まで背負っているのは、ちょっと凄すぎますよね。もしかしたらパライソを見た人の中では、鶴丸に対して怖さとか冷たさを感じた人もいたんじゃないかな。右衛門作に対しての言動とか、部隊のメンバーに対する態度とか、パライソの鶴丸は自分自身も「真実」を見せようとしない。だから冷たい印象を持つ人もいると思う。私は、それも手の内だったのではないかと感じた。作中で鶴丸は、率いる民衆、右衛門作、仲間、驚くべきは観客にまで、そのヘイトを一身に受けようとしたのではないだろうか。理不尽でつらい思いをしたときって、人って誰かを恨んだり責任を押し付けたくなったりするものだと思う。残酷な現実に面して、こうした怒りの矛先をどこに向けたらよいかわからない人たちに、鶴丸は自らがその的になろうとしていたのではないだろうか。強い自分が矢面に立ち怒りも悲しみも引き受ける、そんなつもりでいたのではないかな。(しつこいようですが、私の個人的な見解です。)

パライソの鶴丸は、仲間に(観客にも)真実を知らせずに行動することが多かった。自分が嫌われ役を演じて感情を背負うのももちろんだけど、あえて真実を告げないことで、仲間たちの心も守ろうとしたんだろうな。

 

鶴丸の言動からはそんな悲しい強さを感じたなあ、って話です。大倶利伽羅がいてくれて本当に良かった。大俱利伽羅との話はまた別途。

 

少しそれましたが、パライソにおいて真実と事実って、ここで語った以外にも、サブリミナル効果かってくらいひっきりなしに作中出てくる。なので、この後の話でも真実・事実の話はバンバン出てくる予定です。ひとまずパライソにおける真実と事実の描写については一旦ここで区切りますね。

【X(旧Twitter)まとめ】パライソの「事実と真実」① 「真実と事実」って何だって話

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パライソの「事実と真実」の話をします。

かなり長くなるので、大きく分けながら話しますね。

 

まずは、「事実と真実」ってなんだ、って話。

 

パライソでは特に顕著なんだけど、刀ミュは「事実」と「真実」を丁寧に区分して描いている。パライソでは鶴丸が乱を起こした理由を語ろうとする右衛門作に対して「どうでもいい。真実なんていくらでも捻じ曲げられる。大切なのは事実だ」と言うシーンがあった。じゃあ事実と真実ってどう違うのかなってところから。

 

結論から先に言うと、事実=史実、表面的なものであり、真実=物事を起こす理由や心。

これは心覚で丁寧に描かれていたので、心覚の話でも触れるかもしれないけど、確かな形として残っているものが事実で、どこにも残っていなかったけれどそこにあったものが真実。

 

パライソでの一例としては、蜂起した農民たちが皆殺しにされるという事象が事実で、(右衛門作が語ろうとした)乱を起こした理由が真実。心覚なら、将門が新皇を名乗ったことが事実、惚れた女がいたのが理由だということは真実、みたいな。あくまで例です。パライソに話を戻すと、真実にあたる「右衛門作が乱を起こした理由」って、実は妻子を人質に取られていて仕方なく…だったのかもしれない。仮にその理由が本当だったとしても、後世には証拠となるモノが残っていないから、「事実」としては扱われないんだよね。これが「いくらでも捻じ曲げられる」って表現に繋がる。確証がない以上は事実でない、という扱いに近い。刀剣男士の任務において必要な事実ではない、って方が良い言い方かも。

 

鶴丸は、戦について仲間に語る際も「理由(=真実)は今は考えるな」と伝えている。なぜ鶴丸は真実ではなく、事実を重要視するのか。そのヒントが、あおさくでの明石の台詞にある。明石が篭手切に対してやや責めるように話をするシーン。

敵(時間遡行軍)と自分たちの違いが無いのではないかという話の流れで、「なあにをぬるいことを言ってますのん。戦争ってそういうことや。互いの正義のぶつかりあいや。ほいでもって勝ったほうが正義の中の正義。負けた方はいつだって悪者や」と語る。「そんなに単純なものかなあ」という返答に、さらに明石は「単純にせんと壊れてまうからなあ」「心。自分は正しい敵は悪。だから殺しても壊してもええ。そう思わんとやってられへん」と発言する。明石は時間遡行軍にも彼らなりの正義があることに気付いた篭手切に対し、それはそうと「自分は正義で敵は悪」と構図を単純にして自分に言い聞かせておかないと、心が壊れてしまうのだと言っている。つまり、敵にも戦う理由や正義があるという「真実」に目を瞑り、今戦わなければならないという「事実」に目を向けていると捉えることができる。

真実って、知ってしまうとやりにくくなるものだと私も思います。マンガとかアニメでも、敵キャラの過去編を見ちゃうと、初めは憎かった敵でも倒されて欲しくない!って思いません?そういう感覚に近いんじゃないかな。

 

明石が言う台詞も、相手に正義があること(真実)を考えてしまうと、自分が心を壊してしまう(=戦えなくなる)。だからわかっているけどわざと真実から目をそらして戦っているんだよ、ってことでしょう。パライソの鶴丸も、これと同じことを行おうとしていたのではないだろうか。乱を起こした理由、自分が傷つける対象が持つ正義、こうした真実たちに目を瞑って、淡々と事実となる史実の再現へと向かう。

 

鶴丸も明石も、台詞だけをそのまま聞けば冷たい人物に映るかもしれない。しかし、真実をあえて目に入れない行動が何を意味するのかというと、鶴丸も明石も、敵にも戦う理由や正義があることを知っているということ。もう「もしかして相手にも正義があるのかも?」という段階をとっくに超えてしまっている。真実がわかっている上で、あえて自分が戦う事実を背負っている。それって、ものすごく強くて、優しくて、愛にあふれている人物だよなって。

続いて作品の構造の話に触れたいんだけど、長くなるので分けます。

 

【X(旧Twitter)まとめ】静かの海のパライソの「パライソ」って何だって話

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静かの海のパライソの「パライソ」って何だって話をします。

作中には「パライソ」という言葉が何度も出てくる。私は、作中のパライソを言葉そのままに天国、つまり平和な世を表す言葉として受け取った。戦がなく、人々が笑って暮らせる穏やかな場所こそがパライソ。パライソに登場する人々は、皆そんな「パライソ」を目指して懸命に生きた。パライソがゲシュタルト崩壊しそう。

 

さて、この「パライソ」は違う物事としても繰り返して描かれる。まずは冒頭で歌われる♪オロロン子守唄。歌詞の内容から、島原地方のキリシタンによって歌われた子守唄であることがわかる。もうこれ、初見の時に衝撃が走った。やられたなと思いましたね。

言わずもがなといったところですが、ここで歌われるのが子守唄である点がすごく重要で。みほとせから始まる平和の象徴って、子守唄じゃないですか。赤子が子守唄を聞いて安心して眠れる世、つまり子守唄が歌われているということは、その世の中が平和であるということ。刀ミュ全体における平和の象徴が子守唄なんだよね。

こんな話をすると、みほとせで描かれたワードが刀ミュの基本ルールを敷いているっていう話に飛びたくなるんだけど、それはまた別途にします。またこんど!

さて話を戻します。冒頭で子守唄が歌われたということは、あの時点では彼らは既に平和なパライソにいた。そんなパライソ=安寧の世を壊されたことをきっかけに、彼らは反乱を起こし、島原の乱へと繋がっていってしまう。無情よな。結果、今までいた場所を取り戻したかっただけの多くの人が命を散らしていった。少なくとも作中に描かれた人間たちは、誰も高望みはしていなかったように見える。理想郷を築くというよりは、過去の幸せを取り戻したかっただけ。そう思うと、時間遡行軍というか、過去を取り戻したいと思う気持ちって、人間の誰しもが持つ気持ちだよなって。個人的にしんみりした話になってしまったので、話題を「パライソ」に戻します。

 

「パライソ」=平和を意味する言葉としては、海が挙げられる。

まず、パライソにおける海は2つある。ひとつは、月の平原である静かの海。タイトルにもある静かの海とは、元の意味は月にある平原のひとつ。鶴丸と大倶利伽羅が歌う♪静かの海の中では、「かつての足跡が消えることのない 穏やかな場所」であり「そこに風は吹かない 退屈な場所さ」とある。なお、刀ミュにおける風とは、♪無常の風でも♪かざぐるまでも歌われるように、時の流れを意味している。時に無情なまでの出来事を起こすのが風。鶴丸のソロ♪無常の風では、鶴丸風が吹くときを待ちわびており、ここからは鶴丸が風による(予想外の)出来事を期待していることも描写される。

さて、静かの海は足跡が消えない=風によって土が流されることがない。そして風の吹かない場所だそうだ。つまり時が流れずに止まっている状態ということ。驚きを欲する鶴丸にとってはまさに「退屈な場所」であることは間違いないだろう。しかし、♪静かの海の最後は「いつか行ってみたいな」という鶴丸、そしてそれに同意する大倶利伽羅の台詞で締めくくられる。鶴丸にとっては望まない退屈な場所なのに、行ってみたいと言う。それはつまり、静かの海が安寧の地であるということ。まさに安らかに眠れる天国なのだろう。

さらに物語の終盤で、鶴丸は海に向かって島原の乱を嘆いて、「連れてってやれよ」「静かの海へ、パライソへ」と叫ぶ。静かの海を天国として捉えているからこそ、こうした台詞が出てきたんだろうなって。

天国を死後に行ける場所として意識するとなると、いつか行ってみたいと話す鶴丸と大俱利伽羅の台詞も、またひとつ違って聞こえる。なんだか刀ミュの刀剣男士って、自らが折れたら地獄に行くと思っている人が多そうなイメージだからさ。

 

もうひとつの海は、そのままの「海」。立地的またそれを表現する演出的な意味からも、作品全体に海のイメージを持つ人も多いんじゃないかな。鶴丸ソロの♪無常の風は「穏やかな海のおもて」で始まり、海上に吹く風とその風によって生じる波を歌っている。太陽に照らされて赤く染まれば血の表現として、青く輝けば空と同化した存在として、パライソは初めから終わりまで、海に表情を与え続ける。この徹底ぶりはいっそ恐ろしい。それぞれのシーンについてはまた別途。

 

さて海とは何か、という答えのひとつが言葉として出るのは、浦島・日向の歌う♪海はただそこにある でわかる。海は、空腹を満たしてくれる場所であり、涙を流しても流し去ってくれる場所。あおさくの話になるのだが、信康はどうして戦が起きるのかという問いに、「腹が減るから」という明確な答えを出している。腹が膨れれば、戦なんて無くなると。ここにきて海=腹を満たす場所の意味を与えるといことは、つまり海もまた「パライソ」であると言える。また、そんな海=パライソは、涙を流しても受け止めてくれる場所、つまり自分がありのままでいられる場所でもあるということ。本作での鶴丸が顕著だったけど、自分の本当の気持ちや真実を隠して振る舞う者にとって、裏表の無い感情をむき出しにできる場所って、貴重なんじゃないかな。以前歌合の話で触れたけれど、心からの真実を表現する歌は、基本的にひとりでないと歌えない。本性が暴かれてしまうから、そうすると一線を越えてしまうから。同様に、本心を出せる場面ってきっと人前では見せられないことが多い。大人になればなるほど、人前で涙って流せないじゃないですか。それを受け止めてくれるのが海。心が壊れそうになった時に、本心を受け止めて潮風が頬を撫でてくれる場所が海なんだよね。鶴丸が終盤で本音を叫ぶことができるのは、すべてをただ受け止めてくれる海だったからなんだろうな。

 

さて、もっと露骨な「パライソ」について。作中でキリシタンや農民たちは希望の象徴として「パライソ」という言葉を使った。天草四郎に成り代わった浦島と日向も、それぞれ「パライソ」という言葉を用いて人々を集めている。浦島は元気が出る魔法の言葉として、日向は自由を再び取り戻すための言葉として。一揆に加わった人たちも、そのほとんどが「パライソとは何か」という答えに重きを置いているわけではなかった。それぞれにとっての希望を「パライソ」と言い換えていたにすぎない。ちょっと嫌な言い方だけど、人々にとって都合のいい希望が「パライソ」という言葉として発されていた。また、希望とは光とも言い換えられている。右衛門作は天草四郎を「我らの光」と呼び、日向に集った人々を見て「人は光を求めている」と言っていた。光についてはまたのちほど軽く触れます。

 

長くなったけど、「パライソ」は平穏に暮らしたいという人々の希望を表す言葉なんだろうな。そのモチーフとして、同じく「パライソ」の意味を含んだ月や海といったモチーフを場面に登場させている。観客としては、常に様々な「パライソ」を見せ続けられている状態となってるんだよね。なおかつ上手いのが、パライソモチーフである月や海を、平和の象徴としての側面だけでなく、真逆の印象を与えるものとしても描いているところ。この件については別途。とにかく、「パライソ」の扱いひとつ取ってもどこまでも凝っている。まだパライソの話序盤なのに、言いたいことがあふれてしまう。さすが刀ミュ。

【X(旧Twitter)まとめ】歌合で示された、歌とは何かって話

【X投稿文章の再掲】

とりあえず投稿文をそのまま転記していますが、あとでまとめ直す予定です。

Xより見やすいと思いますので、こちらに再掲しています。

 

歌合で示された「歌とは何か」って話をします。 パライソといいつつ、こっちを先にまとめておいた方がわかりやすいかなあと思ったので、歌合における、歌とは何かという点について話させてください。ほんのちょっとだけ心覚にも触れます。

いやあ、歌合すごかった!2019年末から2020年初頭か、ってことはもう3年半経っているわけだけど。私としては歌合の衝撃があまりにも強かったので、3年半経った今でも圧倒され続けているのだけれど。 歌合の大筋は、松明を持ち、白を基調とした装束に身を包んだ刀剣男士が「歌合」を行う。

古今和歌集万葉集から採用した和歌を用いて、短編の物語を展開。最終的には桑名江と松井江を顕現させるというものだった。内容に触れたいところをぐっと我慢して、今回は歌の話に絞ります。 恥ずかしながら、歌合を見るまで刀ミュの「ミュ」の部分に疑問を抱いたことはなかった。

いつ歌うのか、何を歌うのか。その作品において歌そのものがどのように扱われているのか、またどのようなものであると定義づけられているのか。こういった点に、私はあまり関心を寄せていなかった。他の多くの作品がそうであるように、ミュージカルだからそりゃ歌うでしょ、というだけ。

歌合を通して、どうして「ミュージカル」刀剣乱舞なのか、ということが明示された。私はそう理解しているし、衝撃を受けた。 まず、彼らが歌をうたうタイミングについて話したい。結論から言うと、歌うタイミングは2つのルールに則っている。

彼らが歌をうたうのは、①作品のアクセントとして用いられるとき、または②自らの本心を明かすときの2場面。 いや、刀ミュに限らずどの作品もそのどっちかでしょ!というのは承知しています💦 刀ミュがすごいのは、このルールを破らなかったところであり、むやみやたらに(というと言葉は悪いですが)歌を入れこむことをしなかったところ。①と②の歌をきちんと分けていて、かつ配分が天才的だった。私だったらきっと、「良い台詞言ってるから歌にしちゃお!」とか「ここ熱い展開だから歌にしちゃお!」って歌連発させてたし、デュエットもソロも関係なくバンバン歌わせてたと思う。

ショー的な要素と作品の根幹部分をきちんと分けているところに、刀ミュの本気度や徹底された価値観というものを感じたわけです。

さて、歌の話に戻ります。

①については、言葉のまま。セリフだけでは少し間延びしそうな場面や見せ場として演出したい場面で歌がうたわれる。この場合、歌う内容は会話や説明であることがほとんど。例えば、あおさくの♪鶴の一声(作戦説明の歌)とか、江水の♪不正(タダシカラズ)(状況説明の歌)がそれに当たる。こちらはひとり歌うこともあれば、複数名で歌う場合もある。

そして②について、ここに歌とは何かが潜んでいる。

結論をいうと、自らの本心があふれ出すとき、刀ミュの刀剣男士らは歌をうたう。

こちらも例を挙げると、パライソで大倶利伽羅が歌う♪白き息とか、江水で和泉守が歌う♪散る花をとか。ちなみに、こちらはひとりで歌うことが基本だが、ふたりで歌う場合もある。あおさくで村正と蜻蛉切が歌う♪誰がために、パライソで鶴丸と大俱利伽羅が歌う♪静かの海がこれにあたる。なお2名で歌う場合は、歌うふたりが同じ想いを抱いているときに限られている。

歌として表現しているけれど、②の場合に歌われるのは、台詞というよりもその人物の心そのものなのだろう。どうしてそう思ったか、その答え(と私は勝手に思っているのですが)が歌合の中にある。やっと歌合の話の中身に入りますね!

歌合におけるキーが潜んでいるのは最初と最後の全員が登場するシーン。まずは冒頭の台詞及び歌詞から見ていきたい。 まずは♪奉踊が流れ、刀剣男士が踊りながら登場する。松明を持った鶴丸が告げるのが、以下の台詞だ。

 

歌とは 人々がその想いを万の言の葉に託したもの

歌に託された想いは 時に人非ざるもの 神々の心をも動かすという

花の香に昔を懐かしみ

鳥の囀りに耳を澄まし

風に散る草葉の露に袂を濡らし

月傾く雪の朝に春を想う

この世に生きとし生けるもの 何れか歌を詠まざりける

人も 神も 鬼も 妖も そして我らも

さあ歌え さあ遊べ

 

鶴丸による冒頭の宣言となるが、ここでもう既に歌とは何かが語られている。「人々がその想いを万の言の葉に託したもの」が歌。さらに「歌に託された想いは 時に人非ざるもの 神々の心をも動かすという」とのこと。

人が想いを歌に託し、その想いが神の心すら動かす、なんて壮大なことを言い出すわけです。そして、花鳥風月への感動を抱える者であれば、人だろうが神だろうが、鬼だろうが妖だろうが、皆歌をよめるのだと。ここで語られることは、キービジュアルの背景にもある古今和歌集の「仮名序」にある「やまとうたは ひとのこころをたねとして よろずのことのはとぞ なれりける」と同じような意味。つまり、人の心こそが歌なのだ、という前提が冒頭数分で鶴丸によって語られる。 さらに、次の♪神遊びでも歌とは何かという内容が続く。

歌詞は以下のサイトに掲載されていたので、ご参照ください。 petitlyrics.com/lyrics/2874484 内容については歌合を語る中で触れたいので、ここでは歌に限った部分に注目する。 「筆を持て」から始まる部分を見ると、以下のように続く。

「筆をもて 炙り出される本性歌を綴れ さらけ出される欲望 描きだされるは 秘められた想い」 筆を持って歌を綴る、そうすると欲望が曝け出され、秘められた想いが描き出される。 何とも赤裸々な印象を受ける。そして続くのが「筆を持て 脅かされる秩序 歌を綴れ 超えてはならぬ一線 篝火揺れて 神々の影躍る」 筆を持って歌を綴る、そうすると不可侵の一線を超え、篝火を揺らし神々が踊る、つまり神の領域に入っていくことを示唆している。 こちらについては、歌合で行う内容に触れているものだろう。

さらに後半では「歌歌う 桜咲く 音踊る ふるふる」「花を愛で 風を撫で 恋わずらふ ふるふる」とある。 ここは、私は歌を詠む喜びと状況を示しているのではないかと思った。人の心の表れである歌を競い舞い歌うことで、桜が咲き(人が笑い)楽しく踊ることができる。

また、花鳥風月を愛でたり恋煩いをしたりといった状況で、そこで生じた想いを歌に乗せると解することもできる。 なお、蜻蛉切と村正の関係性を考える際に「恋」という言葉を用いたが、刀剣男士が恋をするだろうと私が思う理由として、ここで「恋わずらう」と歌われているからというものがある。

ここでは話題が逸れてしまうので割愛します。さて、愛しいとか恋しいとか美しいとか、そういった心からの感情を歌に乗せる。そうすることで、他者や神でさえも感動させることができるのだと、そういう前提を歌合冒頭では語っているのではないだろうか。

歌合終盤でも、♪あなめでたやの中で歌について繰り返される。 「想いは 言葉へ 言葉は 歌へ 歌は あなたへ そして新たに生まれる想い」という箇所だ。 冒頭と同じように、想いが言葉になったものが歌であり、それが誰かに伝われば新たな想いが生まれるという。

これは、想いが言葉となった歌が伝われば新たな命が生まれる、という歌合での桑名・松井の顕現とダブルミーニングとなっていると思う部分でもある。人の心からの想いが歌となることで、人(だけでなく神でさえ)の心を動かすことになるということが、歌合では明言されている。 加えて、心覚の中の一節にも歌とは何かがうたわれている。五月雨江と太田道灌の♪要となる城の中で、「人はなにゆえ歌うのだろう」の問いに「心にとどめておけぬから」と回答される。

これらをまとめて刀ミュにおける歌とは何かを考えると、心から生じる想いがあふれ出して言葉となり、歌となる。そんな歌が伝わり人や神の心を動かすことができる、と理解できる。したがって、刀ミュにおける歌、特に②自らの本心を明かすときにうたわれる歌は、歌う人物が抱いた心からの想いがあふれ出した結果と言って良いのではないか。 劇中で彼らがうたう歌が、単にミュージカル作品だからという理由にとどまらない、本心を明かす手段として表現されていることが、とても尊く美しいとも感じた。

さらに、歌を依り代として刀剣男士が生まれる本丸であれば、「ミュージカル」刀剣乱舞となるのはもはや当然だなあと感動すら覚えたわけです。 本心があふれ出す場合に歌われる刀ミュの歌は、前述の通り基本的にはひとりないしふたりで歌われる。その理由は歌がその者の本心であるから。

自らの本心をベラベラと明かす、というタイプの人は現実世界においても(いるにはいるが)まれだと思う。特に刀ミュの刀剣男士は、自分の本心を抑えたり隠したりすることが多い。例えばみほとせで村正が歌う♪可惜夜の雲もそのひとつ。

♪可惜夜の雲は、夜空の下で村正がひとりで歌う。ここで歌われる歌詞を見ても、恐らくこれは当時の村正の本心だろう。だとしたら、この歌を誰かの前で歌うことができるだろうか。恐らく村正はそれをしないのではないのかと思う。

この歌に表される自身の心の闇を吐露することを、少なくともこの歌をうたった当時の村正はしないんじゃないかな。だからこそ、村正はひとりでこの歌を歌いあげる。ひとりごとに近いのかもしれない。

本音があふれ出す歌だからこそ、(人に知られなくないから、心配させたくないからなどの理由を背景に)村正に限らず歌い手は誰もいない状況でたったひとりで歌い上げる。もちろん、見せ場としての演出効果もあるのかもしれないが、本心をあふれ出させる歌のシーンは徹底してひとり。

私はそれを製作側が意図的に慎重に扱っているのではないかと深読みしました。そう思って見返すと、1部での独唱パートの多くがたまらなく切ない。 またこれを踏まえれば、ふたりで歌う場合の「良かったねえ」感がすごい。本音を共有できる、同じ想いを抱いている相手がいるというのは良いことだし、絆の深い相手だからこそ共に歌えるんだろうなと。美しいね。 まとまらないけど、歌はうたう者の本音の表れであり、1部にひとりきりで歌う場合はほぼ本音の吐露と受け取れる。

このルール的なものを前提に刀ミュを見て、感じたことを今後もぽちぽちと話していきたいと思います。いやあ、歌はいいね。